『モーニングサービス』三田完/新潮社 | 砂場

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$書店員失格
『モーニングサービス』三田完/新潮社


本の中からいい匂いがしてくる。コーヒーの香り、トーストに溶けたバター。昔ながらのナポリタン。いくら時代が変わろうとも、その味と匂いは変わらない。昭和の雰囲気を残しながらも、ノスタルジックに「あの頃は良かった」という世界には埋没せず、しっかりと今ここに地に足の着いた物語。それが、とても心地よかった。

喫茶「カサブランカ」の店主夫婦と常連客を描いた群像劇。様々な悩みや苦しみを抱えた人たちが、そこで出会った人たちとの関わりによって救われていくというのが物語の流れになっている。性同一性障害の大学生、田舎の子どもを置いて芸者修行をしている女性、ベトナムから出稼ぎにきている青年、いつもケータイをいじっている風俗嬢。毎日のように通っているすき焼き屋の店主、芸者の大姐さん、さらには店主夫婦もつらい過去を抱えている。

店の外ではそれぞれの立場で悩みを抱え込みながら生きているのだが、この喫茶「カサブランカ」にいる時はごく自然な自分でいられる。職場の同僚、学校の同級生、また家族という関係でもない繋がりがここにある。社会的な地位や、つまらない偏見のレッテルを取っ払った人間関係。そんな関係がどれほど生きていく上での救いになるのかを、ページを捲るほどに痛感させられる。

様々な問題が起き、そして日常が続いていく。物語のなかでは過去の描写を丁寧に描いているが、現在起こったことはさらりと流れていく。書かないことによって「きっと、あんなことがあったのだろう」と思わせる文章が深い余韻を生みだす。この絶妙な距離感がいいなと思う。それぞれが抱える大きくて深い悩みを劇的に解決させ、安易なカタルシスを生みだすのではなく、その人生が変わらずに続いていくことに焦点を合わせている。問題が解決することが重要なのではなく、その人生が肯定され続いていく日常こそが大事なのだと、余白が語っているようだ。

誰もが自分にとっての喫茶「カサブランカ」を見つけることができたら、どんなにいいかと思いを巡らす。それは「絆」というよりも「縁」に近いのではないだろうか。縁を大切にしたいなと僕は最近よく思う。