『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

本を読みながらiPhoneに打ち込んでいた読書メモが、読み直したらそのままでも面白かったので、少しだけ手直していて載せておこう。まったく書評にはなっていないけど、小説の文体、雰囲気に近づけた文章で感想を書くというのはけっこう好き。

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)
高橋 源一郎
講談社
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小説を読んでいると自由になれる。特にこんな小説はね。さようなら、ギャングたち。とても詩的で私的な言葉が並んでていて、ここから意味をすくい上げようとすれば、人の数だけ違うだろうし、時代の数だけ変わっていく。何かひとつの答えなんかなくて、だから自分の好きなように読むことができて、自分がなんだか自由になっていく気がする。

僕はこの物語を好き勝手に読む。作者の意図なんか完全に無視。というか、さっぱり見当もつかない。ギャングという言葉からシンジケートを連想して穂村弘の世界を拾い集め、断片の詩的な世界はブローディガンの西瓜糖の日々と繋がり、猥雑で暴力的な日常が中原昌也へと重なっていく。そして、やっぱり詩を読んでいるような気になって、余白を熟読する。ここには僕のことが書いてるんだ。自由な僕。相対的な僕。

さようなら、ギャングたち。ギャングとは相対的な存在という言葉があって、なるほど小説もそうだよなと思う。さようなら、小説たち。詩人かと思ったらギャングで、ギャングかと思ったら詩人だったという小説? ほんとに?

僕は誰なのか、何者なのかという問は当然あるし、僕よりもまわりの人たちもよく分かららない人ばっかり。抽象的だけど生々しく。生々しいけど非現実的。もしかして白昼夢? あやふやなのなのに、確かに僕は捕まえたという気分になる。これは僕で、あれも僕。