砂場 -2ページ目

砂場

本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

2012年11月の読書メーター
読んだ本の数:2冊
読んだページ数:491ページ
ナイス数:8ナイス

盤上の夜 (創元日本SF叢書)盤上の夜 (創元日本SF叢書)感想
囲碁、将棋、麻雀、チェッカーなど盤上のゲームにその人生を賭けた人間たちを描くSF短編集。特に未来社会を描いているわけでもないのにSF小説なのは、盤上のゲームとそこに生きる人たちを鮮烈に描き、そのゲームと人との不可避的な結びつきを突き詰めていくと、その向こうには無限の宇宙が広がっているからだ。常人の極限を越えた境地に見える、世界の残酷さと美しさ。今まで味わったことにない物語世界に、いまだ興奮が冷めない。
読了日:11月8日 著者:宮内 悠介


よろこびの歌よろこびの歌感想
ブルーハーツもハイロウズも大好きだ。音楽はいろいろ聴くけれど、現実の生活の中で苦しいことがあった時、いつも僕は祈るように彼らの歌を口ずさんでいた気がする。 そんなハイロウズの歌をタイトルにしたこの連作短編集もまた、読むほどに心が軽くなっていく。 さっきからずっと、私の頭の中でブルーハーツ「情熱の薔薇」が流れているから〈花瓶に水をあげましょう心のずっと奥の方〉この本は私にとって水なんだと思う。
読了日:11月1日 著者:宮下 奈都

読書メーター
10月から読書メーターを使ってみてます

2012年10月の読書メーター
読んだ本の数:5冊
読んだページ数:1425ページ
ナイス数:5ナイス

ニューヨーク革命計画 (1972年)感想
全体のストーリーは雲散霧消している。断片的なシーンの描写ばかりで、登場人物、場面、時間などあらゆる要素が次々に入れ替わる。語り手すら別人になる。 女性のように見える木目。その女性はロープで縛られていて、そこに男が現れる。木目ではなかったのかと思っていると、その構図がそのままポスターとなって駅の構内に貼られている。 読み進めるほどに混乱していく。けれどメロディはなくても反復されるリズム(モチーフ)によって、ミニマルテクノに陶酔しているような気持ちよさがある。眩暈がする。
読了日:10月27日 著者:平岡 篤頼,アラン・ロブ=グリエ


金の仔牛金の仔牛感想
18世紀のパリで追い剥ぎで生計を立てていた若者が株バブルに乗って成り上がっていく。一癖も二癖もある策士たちが活躍するド直球のコンゲーム。お金だけでなく、絶世の美女のヒロインも引く手数多なので、さらに複雑な様相に。青髭を彷彿させる殺人狂の貴族とか、暗躍する三つ子の老人とかキャラ立ちすぎだ。数字が苦手な私としては細かい取引の取り決めに混乱しっぱなしだったが、痛快なストーリー展開で楽しめた。
読了日:10月22日 著者:佐藤 亜紀



しろいろの街の、その骨の体温のしろいろの街の、その骨の体温の感想
『マウス』に近いれど、こちらのほうがスクールカーストでの自意識について深く描いている それぞれの成長過程の変化による小学校から中学校に上がってからの残酷な立ち位置の変化。自意識過剰な内面を徹底的に描いていて、自分の思春期の暗い部分を、性の差はあれど、いろいろと思い起こさせる。 自意識過剰であるがゆえ、「過剰」だからこそ辿り着くことのできたラストシーン。の真っ白な光が体を貫く。 村田沙耶香は半分くらいしか読めていないけど、全部読みたいなと思う。
読了日:10月19日 著者:村田沙耶香



タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)感想
『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト/新潮クレストブック 祖父が死んだ。紛争の爪痕の残る土地にワクチンを届ける傍で、取り乱した祖母からの連絡を受ける。子供の頃、毎日ように祖父と一緒に動物園にトラを見に行った。祖父と過ごした日々。それを思い返すことは自分の過去を遡ることでもあった。祖父と歩いた真夜中の街。わたしにだけ語ってくれた「不死身の男」と「トラの嫁」の話。 祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」 「どんな瞬間が?」 「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」 P6
読了日:10月13日 著者:テア オブレヒト



いつか、この世界で起こっていたこといつか、この世界で起こっていたこと感想
原発事故をとても遠くから描く。遠く離れた所から。けれどそれは繋がっている。別世界の出来事に思えても、私たちの生きる世界はどこかで繋がっている。 原発事故が起きたから、私たちの世界が一変したように思える。けれど、事故が起きる前から、世界は原子力という存在と深く関わってきた。過去にも天災や人災が繰り返さてきた。 立つ場所は違えど、誰もが大きな流れの中にいることを感じる。「分かる」とは「分ける」ことから始まるとどこかで聞いたが、「分からない」ことの「分けない」ことの意味を考える。
読了日:10月8日 著者:黒川 創

読書メーター
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『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト/新潮クレストブック

祖父が死んだ。紛争の爪痕の残る土地にワクチンを届ける傍で、取り乱した祖母からの連絡を受ける。子供の頃、毎日ように祖父と一緒に動物園にトラを見に行った。祖父と過ごした日々。それを思い返すことは自分の過去を遡ることでもあった。祖父と歩いた真夜中の街。わたしにだけ語ってくれた「不死身の男」と「トラの嫁」の話。

祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」
「どんな瞬間が?」
「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」
P63

紛争の耐えなかった旧ユーゴを舞台にして、戦時下の混乱を描きながらも、そこに「不死身の男」や「トラの嫁」の物語が入り込んでくる。このありえない存在が物語を鋭く貫いている。(僕はマジックリアリズムがどういうものか理解できていないので、遠野物語のようなイメージで読んでいたが、それほど違和感はなかった。)

今自分が生きている現在と、生きてきた過去。そこに祖父の生涯と、祖父と関わった人たちの人生までも語られる。数多くのエピソードはそれぞれ毛色も違い独立しているようにも思えるが、時代という枠組みや、その土地によって強く結びついているようにも感じる。(この混沌とした物語構造に旧ユーゴの歴史を重ねてしまうのか私の深読みなのかどうか。)

そして「不死身の男」や「トラの嫁」だけでなく、他の登場人物の人生も衝撃的だった。特に祖父が生まれた村での「トラの嫁」と関わることになる人物たち。肉屋。薬屋。クマ狩りの男。書き割りのような脇役かと思っていたら、突如動き出して、激しく生々しいその人生が描かれる。

殺伐とした世界と幻想的な世界は切り離されながらも隣り合っていて、過去と現在は断絶しながらも繋がっている。この世界のどこかで今も「不死身の男」が懐からコーヒーカップを取り出していると思うと、ふっと世界が違ってみえる。動物園に行ってトラの目を覗き込みたくなるような、そんな気分になる。
$書店員失格
『雲をつかむ話』多和田葉子/講談社

主人公の女性が偶然一度だけ出会った奇妙な男がいた。後日、その男から手紙が届く。それは刑務所からの手紙で、その男は終身刑に服していた。自分の人生とは無関係だと思っていた「犯人」という存在が、とても身近なものであることに気づかされる。それから主人公は今まで出会ったことのある、犯人について記していく。殺人犯、窃盗犯、無賃乗車、政治犯。あくまで自分が知る範囲なので、その事件の全容は分からず雲をつかむような話ばかり。

日本人作家であるけれど、海外小説を読んでいるような気分だった。僕の数少ない読書経験に照らしあわせると、文体としてはリディア・ディビス『話の終わり』に近かった。自分の心情と目に見えていることを丁寧に描き、そこにこうではなかったのかという想像が入り込んでくる。必然ではなく、ただただ偶然によって始まって深まっていく出会い。何があったのか分からず尻切れトンボで終わるエピソードの数々。神の視点ではなく、一人称から見える世界の不完全さ。

全体を見れば曖昧だが、そこに存在していることは目に見えている。その細部をためらいながら確かめるように言葉に置きかえていく。ああ、雲を書いているのだなと思う。定規で線を引くように正確に文章を書き込んで行く人もいれば、フリーハンドで流れるような言葉を生みだしていく人もいる。この文体はフリーハンドだが、その言葉はグルグルと渦を巻くように中々前には進まず、けれどゆっくりと位置をずらしていき、いつしかその渦が重なってやっとカタチのようなものが見えてくる。

 手紙の返事を書こうとしてもなかなか書けない時、つい日記をひろげてしまう。悪い癖だと思う。手紙は一人の人間に向かって真っ直ぐ飛ばさなければならない紙飛行機のようなもので、紙とは言え、尖った先がもし眼球に刺さってしまったら大変。責任を持って書かなければならない。責任を気にかけすぎると、書きたいことが書けない。それで、とりあえず責任のない日記をひろげてしまうのかもしれない。日記を前にすると頬杖がつきたくなる。頬杖をつくと、顎がかくっと上に向けられ、窓ガラスを通して青い空が見える。
P23


文章の素晴らしさに心奪われ、雲をつかむような話に入り込んで雲の中でフワフワしていたら最後の章で目にしたのは、思いもよらない景色だった。どうやら思っていたよりも、僕は遠くに連れて行かれていたらしい。読み終えて本を閉じて表紙をじっと見る。まだ雲の中にいるような気がする。
$書店員失格
『ふくわらい』西加奈子/朝日新聞出版

やはり特筆すべきはあのラストシーンだろう。もしもあのシーンが冒頭にあったなら、ただポカンとしてしまう。けれど、この物語と共に歩んでくることによって、ともに歓喜と祝福の渦に巻き込まれる。私は西加奈子さんは苦手な作家さんだった。うまく言えないけど、生きることに対して生々し過ぎる感じが苦手だった。けれど、この本はよかった。その生々しい感じはずっとあるのに深く心に入り込んできた。

目に見えるもの、目に見えないもの。生きるうえで切実なものたちの様々な姿をこの物語は見せてくれる。身体と感覚を完全に切り離すことなど出来ず、言葉と意味もまた切り離すことはできない。身体に囚われ、言葉に囚われ、感覚に囚われ、人はまるで目隠しをして生きているように、つまずき転び傷だらけになる。

けれど目隠しをしていても、人と世界はどうしようもなく繋がっている。そして、人と人も繋がっている。その心が離れているいるように見ていても、たとえその姿が見えないのだとしても。わたしの中にあなたがいて、あなたの中にわたしがいる。

ふくわらいをした時、そこに現れる顔が人それぞれで毎回違うように、この物語の感想もまた人によってまったく違うものになるらしい。僕が目隠しをはずしたら(本を読み終えたら)、(感想を書き殴ったメモの中に)こんな言葉が目の前にあって、なんだか自分で書いた気がしなくて不思議な感じだけど、ふくわらいとはそういうものなのだろうなと思う。

「世界は身もフタもなくそこにあって、ただそれだけで美しいのだ」