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砂場

本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

$書店員失格
『窓の向こうのガーシュウィン』宮下奈都/集英社

額装、というテーマがとてもよかった。ヘルパーである主人公。働き先の男性は額装を仕事としている。依頼人から預かった絵を額装する。額装することによって絵のイメージはガラリと変わる。

たとえば、自分の人生のある一場面を思い返すとき、それはただ記憶が再生されるのではなく、その記憶に対する自分のイメージがくっついた「額装」された状態で浮かび上がる。額装するということ。それは過去の記憶を現在に繋ぎ、そして未来へと導くために、大切な意味を持つ。主人公は自分の過去をうまく額装できておらず、だからこそ今が停滞して未来が見えてこない。

そんな主人公の振る舞いを、鮮やかに「額装」してくれる一家に出会う。主人公は驚く。自分が思っている自分の姿ではないものを、彼らは見ている。それは過剰な装飾でないことが丁寧に描かれる。自分では自分のことがよくわからない。自分のことが見えていないという点では、その一家も同じだった。主人公もまたその一家のことを「額装」して見るようになる。ありのままの姿を見つめながらも、その過去を受け止め、未来を祈るような気持ちで見る。つまり、その一家のことが好きになったのだった。

そして主人公は自らの両親のことを考え、子供時代を思い返す。それまで額装することもなく、ゆらゆらと漂っていた記憶が大きく意味を変えて目の前に現れる。新たに額装された記憶が、心の中にぴったりと収まり、僕には「カチッ」という音が聞こえた気がする。その音がとても心地よくて、つい顔がほころんでしまう。

こんな物語だったと自分なりに額装してみる。本を読むこともまた額装なのだと思う。
$書店員失格-とにかくうちに帰ります
『とにかくうちに帰ります』津村記久子/新潮社

表題作をもし通勤電車で読んだ人は誰もが「うちに帰りたい」と思うだろう。自宅で読んだ人は「うちにいる自分」の幸せさを噛み締めることができるけど、自宅にいるにも関わらず「わたしもうちに帰りたい」と頭によぎって自分にドキッとする人もいるかも知れない。

この本には、深刻でありながらも、どこの職場でもありそうな出来事を淡々と描いた「職場の作法」。自宅のテレビで偶然みかけて気に入ったマイナーなフィギュアスケート選手のニュースを追いながら、同僚のことをそこはかとなく気にかける「バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ」。豪雨で帰宅難民となった人たちを描いた「とにかくうちに帰ります」が収録されている。

月曜日に、体がだるくて鼻水が止まらないので会社を休み、鼻水の薬をもらいに病院に行って、待合室の長椅子に座って朝のワイドショーを見ながら、他の患者(主に老人)が診察室に吸い込まれてゆくのをじっと待っていた。
P43「職場の作法 小規模なパンデミック」


僕は津村記久子の描く文章のリズム、言葉の選択がものすごく好きだ。煽るでもなく、抑制するでもなく、淡々とした文章の積み重ねが、リアルな日常の空気をつくりだしていく。ここで語られるのは、相手の態度によって頼まれた仕事の優先順位を操作する同僚とか、自分のお気に入りの文房具を先輩社員が持っているのではないかとか、インフルエンザが流行しているのにマスクをせずに咳をしている同僚がいて困るとか、親戚が有名人なだけでやけにからんでくる上司がウザイとか。読みながら何度も小さく頷く。ときどきニヤニヤ笑ったり、ふとページを閉じて自分のことに置きかえて物思いにふけってみたり。

表題作の「とにかくうちに帰ります」は豪雨によって孤立した埋立洲で帰宅難民となったたOLとその同僚、サラリーマンと塾帰りの子どもが歩いて長い橋を渡って駅を目指す。豪雨の中で体温を奪われる体力を失っていく登場人物たち。疲労困憊のなか歩き続ける理由はそれぞれ違うのだが、その目標は4人とも同じ「とにかくうちに帰りたい」。

家に帰る以上の価値のあるものがこの世にあるのか
P154「とにかくうちに帰ります」


この言葉を自分自身に問いかける主人公が同僚とする会話は、帰ってから見たいテレビや食べ物の話ばかりなので、まるでこの世の中で最大の価値があるものがテレビや食べ物のように思えてくる。このあたりが津村記久子の真骨頂だなと思う。日常を日常のまま描く。日常のなかに何か特別なものを見つけたりしない。ただ日常がそこにある。いろんな出来事は変わらない日常に回収されていく。読み終えると、自分の日常の景色が今までよりも鮮明に見える。何かが大きく変わるわけでもない。でも、それがいいのだと思う。それでいいのだと思うことができる。
$書店員失格
『モーニングサービス』三田完/新潮社


本の中からいい匂いがしてくる。コーヒーの香り、トーストに溶けたバター。昔ながらのナポリタン。いくら時代が変わろうとも、その味と匂いは変わらない。昭和の雰囲気を残しながらも、ノスタルジックに「あの頃は良かった」という世界には埋没せず、しっかりと今ここに地に足の着いた物語。それが、とても心地よかった。

喫茶「カサブランカ」の店主夫婦と常連客を描いた群像劇。様々な悩みや苦しみを抱えた人たちが、そこで出会った人たちとの関わりによって救われていくというのが物語の流れになっている。性同一性障害の大学生、田舎の子どもを置いて芸者修行をしている女性、ベトナムから出稼ぎにきている青年、いつもケータイをいじっている風俗嬢。毎日のように通っているすき焼き屋の店主、芸者の大姐さん、さらには店主夫婦もつらい過去を抱えている。

店の外ではそれぞれの立場で悩みを抱え込みながら生きているのだが、この喫茶「カサブランカ」にいる時はごく自然な自分でいられる。職場の同僚、学校の同級生、また家族という関係でもない繋がりがここにある。社会的な地位や、つまらない偏見のレッテルを取っ払った人間関係。そんな関係がどれほど生きていく上での救いになるのかを、ページを捲るほどに痛感させられる。

様々な問題が起き、そして日常が続いていく。物語のなかでは過去の描写を丁寧に描いているが、現在起こったことはさらりと流れていく。書かないことによって「きっと、あんなことがあったのだろう」と思わせる文章が深い余韻を生みだす。この絶妙な距離感がいいなと思う。それぞれが抱える大きくて深い悩みを劇的に解決させ、安易なカタルシスを生みだすのではなく、その人生が変わらずに続いていくことに焦点を合わせている。問題が解決することが重要なのではなく、その人生が肯定され続いていく日常こそが大事なのだと、余白が語っているようだ。

誰もが自分にとっての喫茶「カサブランカ」を見つけることができたら、どんなにいいかと思いを巡らす。それは「絆」というよりも「縁」に近いのではないだろうか。縁を大切にしたいなと僕は最近よく思う。
本を読みながらiPhoneに打ち込んでいた読書メモが、読み直したらそのままでも面白かったので、少しだけ手直していて載せておこう。まったく書評にはなっていないけど、小説の文体、雰囲気に近づけた文章で感想を書くというのはけっこう好き。

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)
高橋 源一郎
講談社
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小説を読んでいると自由になれる。特にこんな小説はね。さようなら、ギャングたち。とても詩的で私的な言葉が並んでていて、ここから意味をすくい上げようとすれば、人の数だけ違うだろうし、時代の数だけ変わっていく。何かひとつの答えなんかなくて、だから自分の好きなように読むことができて、自分がなんだか自由になっていく気がする。

僕はこの物語を好き勝手に読む。作者の意図なんか完全に無視。というか、さっぱり見当もつかない。ギャングという言葉からシンジケートを連想して穂村弘の世界を拾い集め、断片の詩的な世界はブローディガンの西瓜糖の日々と繋がり、猥雑で暴力的な日常が中原昌也へと重なっていく。そして、やっぱり詩を読んでいるような気になって、余白を熟読する。ここには僕のことが書いてるんだ。自由な僕。相対的な僕。

さようなら、ギャングたち。ギャングとは相対的な存在という言葉があって、なるほど小説もそうだよなと思う。さようなら、小説たち。詩人かと思ったらギャングで、ギャングかと思ったら詩人だったという小説? ほんとに?

僕は誰なのか、何者なのかという問は当然あるし、僕よりもまわりの人たちもよく分かららない人ばっかり。抽象的だけど生々しく。生々しいけど非現実的。もしかして白昼夢? あやふやなのなのに、確かに僕は捕まえたという気分になる。これは僕で、あれも僕。
当マイクロフォン (角川文庫)
三田 完
角川書店(角川グループパブリッシング) (2011-08-25)
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ひとりの人間の人生を読んだ。

ドラマ「鬼平犯科帳」のナレーション、浅田飴のCM、ラジオ「にっぽんのメロディー」など、その独特の語り口調で多くの人を魅了したNHKアナウンサー中西龍の生涯を描いた小説。過去を遡りながら中村龍を描くパートと、現在NHKに在職するディレクターから見た中村龍の姿、というパートが交互に描かれる。著者は元NHKのディレクターなので、この人物は自分がモデルなのだと思う。名前も三田をもじって二村となっている。

東京都港区の区長の長男として産まれた中西龍(「りゅう」、ではなく「りょう」と読む)。裕福ではあるが幼い頃に母を亡くし、継母の元で不遇な幼年期を過ごす。物語は中西龍がNHKに就職した時期からを中心に描かれる。

「たくましい意欲は持ち合わせていませんが、どうか明日の波風よ静かであれ……と希っています。激しさをともなく喜怒は不要ですが、しずかな哀楽は欲しいと思います。人生の真実は、ひそやかなもののなかにこそ宿るというのが、わたくしの信念だからです。」P69

きっと中西龍の生涯は後悔で溢れているのだろう。これらの言葉とは裏腹にその人生は喜怒が際立っていた。初赴任先の熊本に内縁の妻と共に着流しで降り立ち、先輩の度肝を抜く。個性的で、やさしく涙もろい人柄と、女癖の悪さはこの頃から晩年まで変わらない。その語りで人気と評価を得ながらも、問題社員であった中西龍は地方局を流転することになる。これらの言葉は、自戒を込めて発した分けではないだろうけど、その理想と現実に引き裂かれて、いつも悶え苦しんでいる姿がある。

「まったく、気が利かない女で困ったもんです。淳ちゃん、女がね、いうことを聞かないときは、殴るにかぎります」P126

この序盤にでてくるDV発言など、読みながら中西龍が善人なのか悪人なのか判断できず、物語に共感しづらく思えた。けれど、読み終えて思うことは、そんな区別に意味などないということだった。この人はこんな所が駄目で、こうすればよかったとか、せっかくの才能がとか、こうすればもっと幸せになれたのにとか。人が生きることをそういう視点でしか、幸福であるかないかでしか人生を語れないことが、いかに虚しいことか。自分の才能が認められないことに苦しみ崩れていく姿と、その夫に必死に寄り添い生きていく妻、その才能と人柄に惚れ込んでいく二村。中西龍と共に生きる人たちとの濃密な関係に、僕の許す許さないという感情が入る余地などなかった。僕は誰かの人生を評価するために本を読んでいるのではないと思い知らされる。中西龍というひとりの人間の人生にただただ圧倒される。

「……一日に一編、はかないこと、哀しいことを詩に書いて、それで暮らしがなりたつならば、どんなにか幸せな人生でしょうねえ、二村ちゃん」P105

「当マイクロフォン」というのは、中西龍がラジオでつかう一人称代名詞です。「わたしは」という変わりに「当マイクロフォンは」と語ります。喜怒よりも、哀楽を慈しむ人の心に深く染み入る、哀楽ではなく喜怒に人生が突き動かされる人の姿が心を揺さぶる、「当マイクロフォン」はそんな小説です。